昭和四十八年十一月二十七日 朝の御理解
御理解九十節 「上から下へ水を流すのは容易いが、下から上へ流すのは難しい道を開くというても、匹夫の俗人から開くのじゃからものが難しゅうて暇がいる。神のおかげで開かせてもらうのぞ。例え一時は難しいことであっても、辛抱して行くうちには徳が受けられる。」
今朝御神前で頂いたもう以前に流行りました歌に、酒呑むな、酒呑むなという歌がありましたよね。酒呑むな、酒呑むなの御意見なれど、酒呑みゃ酒呑まずにおられましょうかとか何とかいう、そいうような文句でしたよね。
その歌詞が耳に入ってくるのですよね。どういう事だろうかと。これはまあ、人間の一つの心理かもしれません。おかげでもそうです。おかげ頂きたい、おかげ頂きたいは僅かなおかげです。それは丁度【】の水を手前に引きようなもんです。
手の中に残るのは僅かです。けれども信心がわかりたい、という生き方は向こうへ押すようなもんです。ですからかえっておかげを頂いている。信心にもう願わんでも伴うてくるおかげ、これは真理ですね。やはり酒呑みにそげん呑んじゃいかん、そげん呑んじゃいかんといくら言うても止められるものかと、かえって呑みたい心が募ってくる。問題は本人自身が止めるという気にならなければ、なかなかやめられるもんじゃありません。
改まるという事でもやっぱりそうです。改まれ、改まれと言われるけれども、これが改められようかという事になるんじゃないでしょうか。
自分自身が本気で改まろうという気にならなければ、私は今日はその事を頂いとりましたから、この九十節で、例えば上から下へ水を流すのは容易いがとおっしゃるところをね、本気で信心がわかりたいとするものに、信心を教えたり、渡すのは容易い案外信心がわかりたいという人には、けれども信心がわかりたいとは言わずに神様に参ってくる、拝んでもおるけれどもおかげが頂きたい、おかげが頂きたいと参ってるる氏子には、なかなかおかげが渡しにくい。
いや、渡しにくいじゃない、信心がわからせにくい、そういう事になる。これ程御理解頂きよったと、どうして大事なこと、肝心な事がわからんのだろうかと思う位、それはまあおかげの方へ幻惑されとる、惑わされとる。
おかげ、おかげ、自分の意を通す、自分の情を通す、いわゆる我情我欲がいっぱいなんだからです。というてなら、我情我欲を取るなければとおかげを頂けんと言うても、それこそ、我情我欲がそんなに簡単にとれるものかと、我情我欲を取りよったらもう、人間止めんならんごとなる。
とても我情我欲なんか取れるもんじゃないという事になるけれども、本気で信心がわかりたい、本気で我情我欲を取りたい、それに信心の焦点をおき信心をさして頂いたら、信心の教えにもとずいたら、それは容易いということは、ないだろうけれども上から下へ水を流すような、おかげが受けられると思う。信心がわかると、けれども上から下へそれこそ凡夫の俗人と心得、いや匹夫が、匹夫の俗人という言葉を使っておられますがです、私共凡夫はやっぱり幻惑されるのだと。
痛けりゃ、早く治してもらいたい、お金がなければお繰り合わせをどうでもこうでも頂きたい。それこそ百万円の宝くじ、今頃は百万円じゃないでしょうね。
七百万も八百万もですかね、ああゆう宝くじにでも当たりたいように惑うてしまう 貧乏しておると、それは私共が匹夫の俗人だからなんです。だから止むおえないといえばそれまでのこと仕方がない。沢山信心するものがあるけれども、本当におかげ頂きたいばっかりにお参りしておる。修行もさせて頂いとるという事にもなる。
だから、そういうおかげは【】の水を一生懸命こっちに引くようなもんで、手に残るところは僅かのこと、大部分向こうへ行ってしもうとるという道理がわかってです私共こころにいつかは本気で信心がわかろうという事にですならなければいけませんね。
信心がわかりたいという例えば、信者にならです、教えよいです。本当のこと教えられるです。これは本当ですよ。例えば私がここまで、私もまだ限りなく頂いていかんならん。けどここまで頂いている。それには要諦といったようなものがやっぱりあるんです。秘訣といったようなものが。けれども、そこんところはです、教えたらかえって、がっかりする人があるかもしれん。
けれどもです、それう本気で信心を求めておる人なら、それをいうならば、私が教えてあげるといったような事があるです。けれどもおかげが欲しい、おかげが欲しいと言っておる人に、そんな事言うたらかえってがっかりする。実に残念。
さあそこが匹夫の凡人であり、凡人だから仕方がない。成程お取次さして頂くのもです、上から下へ水を流すのは容易いけれども、下から上へ水を流す、これがもう、相場である。だれでもはじめから本当の信心がわかりたいと言うて参ってくるものはまずありません。
自分の我情我欲を満たし、あああってもらいたい、こうあってもらいたい、こういうおかげが頂きたいと言うて参ってくる。
これはいうならば、上から下へ水を流すのではなくて、下から上へ水を流すように難しい。と言うて本当な事というても、もう参っちゃこん。まあそげなことお願いしよんなさってはいかんですよ。信心がわからにゃおかげにならんですよとはじめから言うたら、そげん難しいなら金光様には参られんという事になるでしょう。
どんな事になってもです、本当にどんな事であってもです、願うならにはそれを一応はお取次をさして、徐々に段々にわかってもらうという事。
これは取次の場と。なら、皆さんでも同じ事が言える。ですからどうでもひとつお互いがね、いうならまあ、信心がわかりたいという一念を燃やさねばいけません。
思うだけではいけません。金光教の信者のほとんどがいう、真の信心をわからせて下さいと。けど一つもその真の信心を頂こうというそ一念を燃やさない。それでは燃えつかないです。
だから本当の信心がわからせて頂くなら、どげな修行でもさしてもらうくらいなです、やはり一念を燃やす人がもしあるとするならば、その人にならばそんならこういう生き方、いうならば、振り返っておかげを受けてきた本当の事を、教えてあげられるという事になる。本当ですよ。
最後のところに一時は難しい事があっても辛抱していく間には徳が受けられる。ここは俗にいう凡夫に対することですね。だから徳を受けてくると、今度は難しかったことが、難しい事でなくなってくる。どうしてこの位の事がわからなかっただろをかという事になってくる。
先日私が一言、本当にお徳を受けたい人にこれは他の者に言うてもわからんから、あなただけに話すというて話した事があるが、それを私は聞いてもらおうと思う。
末永先生がここに何かお願いにきた時に私が申しました。御神徳、御神徳と言うけれどもね、本当の御神徳は、真の信心がわかりたいは勿論だけれども、本当に神様の御喜び頂けれる御用にね、お役に立ちたい、立ちたいの一念を燃やさなければ、御神徳は本当は受けられないぞと言うて話しました。
これはここでは末永先生にだけ話しました。しかもそのお役に立ちたいというのがね、大きな本当に神願成就と申しますが、神様の願いが成就する事のためにお役に立ちたい。その為に力を下さい、その為にお徳が頂きたい。だから真の信心をさせてせらわねばおられないという事になるでしょう。
これはもう絶対です、只、一生懸命に熱心にお参りする。修行するそれが只、自分の我情我欲というか、只凡夫としての願いに立ったようなのは、それで徳が受けられるという事はありません。本当の御神徳というのは、本当に神様の手にもならしてもらいたい。足にもらなしてもらいたいという一念を燃やさなければ御神徳は受けられません。
これともうどんな修行をさしてもらっても、御神徳は受けられません。しかもそれが燃えておらねば駄目です。
ですから様々な問題とか難儀とか難儀を感ずるときとか、心が暗くなる事があってもです、そういう素晴らしい神様の願いである願いに応えられる為の修行という事になるから、その例えば暗い思いをすることもじゅつない思いをすることも有難い事になるのです。
いわゆる痛いけれども有難いという事になるです。例えば神愛を悟らしてもらう、天地日月の心にならして頂く。それは自分の心が豊かに大きくなる事には間違いないです。天地日月の心になることは、大きな心にならしてもらう。それを天地日月の心と言ったようなものを、それと焦点、目的がです、只おかげを頂きたいという事であったら、それは素晴らしいことですけれども、本当の意味に於いての御神徳にはなりません。
御神徳はどこまでも神様の願い、神願、神願に応えられる私にならして頂きたいというようなです、皆さんが信心になられるなら、私が、ここでは親先生があげな馬鹿な事を言いなさるという事も有難くなるでしょう。あんな無理を言いなさると言うても無理が無理になってこなんでしょう。
それは私がいうならば、もう単刀直入、生粋の本当の事を私がわかっておる限りです、教えてあげられるわけです。
それをどうでしょう、おかげおかげと言う人に、もうおかげという事を言わずにね真の信心を願わにゃ、いやそげな事よりか、神様の手足になろうというおかげ頂かにゃと言うたっちゃ、もうがっかりしてお願いにきませんよね、それだけで。
私達がおかげを受けたなと思う事は、もうのっけからですね、天地の親神様の一番の忠義者にお取立願いたいという一念だったです私は。
教会を持ちたいとか、商売大繁盛とか、それもありましたよ。勿論、教会持ちたいなんという事はありませんでした。けど段々わかって行くうちにです、親孝行したいの一念が、もう一つ上の親、いや、もひとつ上の親という事になっきたら、親の心がすこしわかってきた。天地の親神様の心がわかってきた。だからそこからそいう願いがさして頂けるようになった。
いわゆる私が、皆さんにいつも聞いて頂く、具体的なところはいつも皆さんに聞いて頂くですけれども、今私が申しました事は、いっぺんも皆さんに聞いてもろうた事はないでしょうが。本当に御神徳を頂く為には、こうだという事。
私の上に起こってくる一切の問題、難儀それを神願成就の事の為の修行として受けるという事であった。だから私が徳を受けたと。私が徳を受けたとまあ、受けたとも思いませんけれども、まあおかげを頂いたとこう思うんです。
受けとるのじゃない、神様は貸すのだとおっしゃるから、まあ借りておるようなもんです。けれども借りるという事だけでもです、おかげを頂かねば人があれよあれよというおかげにはなってきません。人間の働きだけでは駄目です。
神様の働きを充分に受けようと思えばままよという心を出さねば、ままよという心はです、もうおかげなど、もう自分の願いなどはどうでもよいという事なんです。
それでいて一念を燃やす事はお役に立ちたいの一念である。
そういう私は、皆さんが願いに立たれるようになったら、私としては上から下へ水を流すように容易い事になってくると思うです。
それを皆さんの場合はそうではないから、下から上へ水をながすように難しさを感ずる。五年教えても、十年教えても、いや二十年教えましても、そこんところをぴったりと受けとめて、そして私が現在のところ、ぎりぎりのところを言うてあげる事も出来ない、いわば皆さんが右と言えば、うんそうであるなあ、左と言えば、うんそうですなというて、皆さんの信心にこちらが合わせていかねばならなくらいに難しい。 本気で一つね、それは酒呑むな酒呑むなという御意見だけど、言われりゃ言われる程なかなか、御意見通りにはいけなんんだと。そういうものが凡夫の心の中にある。 そこで呑むしこ呑まんのという気持ち、そして問題は本人が心がけにによって、いよいよ自他ともに難儀せんならんという事がわかった時、本気で神様止めさして下さいという気になった時に、私は本当のおかげが頂かれるとこう思うのです。
だから親先生がお取次して下さりよいようなありかたにならせてもらわねば、今日なりなさいとは言わん。言いよるとかえって皆さんが信心ちゃいよいよ難しいものにしてしまう。
我情我欲があるならいっぱい並びたててよか。悩みがあるならいっぱい申しあけてもよい。それにいよいよまあ、難しいけれども、そこを辛抱していきよる内にお徳を受けられるというのは、お徳が受けられる道をその間にわかる事ガ出来るという事だというふうに思いますね。
どうぞ。